信念か単なるエゴか?教師と保護者の対立を子供たちはこう見ている!

教師と保護者との対立は意外と少なくないようだ。

確かに真剣に物事に取り組んでいると、意見や考え方の違いが争いに発展してしまうことは少なくない。

それは教育の場でも違わない一方、子供たちへの影響はどのようなものであるのか。

今回は筆者の子供の頃の体験談を中心に、目上の者同士の対立が子供にどう映るか、率直に語ってみたいと思う。

目次

教師と保護者の対立を子供たちは見ている!

教育の場だけの話ではないが、目上と呼ばれる者同士の対立や争いは子供たちにはかなりインパクトがあるものだ。
子供によっては面白く映ったりもする。

また、対立や争いとまではいかなくても、大人各人の考え方や信条等が異なり、それが実際の教育の場で露呈することもあるだろう。

だが、いずれにしても想像以上に子供たちは面食らうもの。

例えば教師がXのことで怒ったとする。他方で保護者はXについては些細な出来事として特に問題せず、むしろ教師の対応、さらにはその資質を問題視する。

あるいは教師のやり方に対し、保護者が異議を唱え、トラブルに発展する。

要するに教師や保護者によって言うことや対応がバラバラであり、結果、相互に対立してしまうのだ。

こうした事態を目の当たりにして子供たちは心のどこかで「何だ、コイツ等は?」と思うかもしれない。

ご存じと思うが、一般社会に出たら、争いや対立は日常茶飯事である。
皆、(命懸けで?)自分の正しさを主張しまくる。

そんな中、人間は(相手の人間をそれなりに仕分けしながら)ある種の振舞いを習得していくのだ。

自分と合わない者や、理解できない者たちとどのように渡り合っていくか(あるいは、あしらっていくか)という術である。

ある意味、面倒臭い”上の人間”への対応の仕方を学ぶのだ。

それが子供の早いうちから起こりうるということである。

特に、感情をあらわにする人、自分たちにとって脅威になりそうな人(もちろん教師も含む)に対してはそうだ。

他方で、そこには尊敬の念など無ければ、何かを学ぼうとする意志もない。

極端な場合、目上の人間は単なる観察対象である。

他方で当人たちは自分たちがどう子供たちに見られているか気づかないでいる。

滑稽であるとともに哀れでもある。

では、次に実際にあった、教師と保護者の対立について紹介する。
皆様はどうお感じになられるだろうか。

筆者の体験談~教師と保護者の対立はこんな感じ~

筆者は子供の頃、ゼロではないがあまり学校に通っていない。

その背景には、教育方針を巡り筆者の親父と学校サイド(特に担任)との衝突やトラブルがあった。
昭和の頃によくいた、いわゆる熱血教師との対立である。

一方、親父も自身の持論を絶対に崩さず、しかも(中途半端に妥協せず)最後まで戦う人間だった。

親父は法律家でもあり、弁論が得意なうえ、貧乏のどん底から一人で社会と戦い抜いてきた。
教師からすると(喧嘩する)相手が悪かったようだ。

以下は筆者が子供の頃に出くわした、親父と某熱血教師との対立の場面である。

その熱血教師は校長に伴われて休日に(事前に何のアポもなく)突然、我が家にやってきた(当時、筆者は学校で上手くいかず、既にほとんど通学しなくなっていた)。

親父と教員は1時間ほど話していたようだが、最後まで話がかみ合っていなかったようだ。

互いに「話のすり替えだ」「あなたの方こそ論点がズレている」といった感じである。

本質の捉え方の段階で齟齬しているのだ。

途中、筆者は校長と共に席を外したが、校長と2人きりになると、その校長は「なぁ、学校に戻ってこいよ」と穏やかに言った。

そうしているうちに、隣の部屋の様子がただならぬ雰囲気になっていった。

担任の教師が強い口調で、親父に言い放つ。

「私がどれほどの意図をもってお子様に接してきたか、これほど説明してもまだご理解いただけないのですか!」と。

その瞬間、今度は親父が、

「自分の仕事の失敗を子供にせいにする気か!」

今まで紳士的にやり取りしていた親父が語気を強めた。怒りを爆発させる一歩手前である。

慌てて校長が中に入る。

「まぁまぁ、お父さん」

互いに手を出すことはなかっただろうが、まさに一触即発。

(この父親に決して屈してはならない)

(この教員を絶対に許してはならない)

ひしひしと伝わってくるが、これが信念とやらの衝突の顛末である。

親父はかつてないほどの険しい表情で部屋から出てくる。校長と担任はそのまま無言で我が家を後にした。

親父は「学校には二度といかなくていい!」とだけ言って書斎に入っていった。

それ以降も筆者は学校に行くことはなかった。
もっとも筆者には学校に居場所はなく、教室でも孤立状態であったので、その気も全くなかった。

その後、筆者の家の事情で転校することになり、今回の騒動は一応一段落したのだが、結局、どこに行っても中学を卒業するまでは同じような状態であった。

振り返って見て、筆者としても自分が学校で教育を受けた、という記憶は全くない。

代わりに(筆者自身のことなどそっちのけで)大人同士の争い・喧嘩がどういうものか勉強させてもらった、というのが正直なところ。

「人間は自分だけが正しいと思う存在であり、彼等から真に学ぶことは微塵もなさそうだ」との思いが強まっていった。

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