教育のために授業を放棄した教員の対応は、本当に正当と言えるのか?

先日、授業を放棄する教員の話を聞いた。
なんでも子供たちに自ら考え反省させるためらしい。しかも正しい教育法であるとの論調もあるとか。

確かに筆者もこうした対応を子供の頃に複数回経験したことがある。
実際は面倒臭い大人たちに振り回された、と言ったところだろうか。

だが、まさか今日でもそんなことが行われているとは正直、信じられなかったし、どう考えても理解することができなかった。

そこで、この問題について再度整理しつつ、この場を借りて考え直してみたいと思う。

なお、記事内容はあくまで個人的な見解である旨をお断りしておく。

目次

教師による授業放棄の問題点

授業放棄に踏み切る教師は、一見すると、いわゆる熱血教師であり「一生懸命やっている、信頼できそうだ」とも思える。
子供たちに反省を促したいという気持ちも理解できなくはない。

だが、そのやり方は果たして適切と言えるのか。問題は全くないと言い切れるのだろうか。

例えば次のような点である。

  • 授業放棄は職務放棄に当たらないか
  • 法的に問題はないのか
  • 授業放棄以外に方法はなかったのか
  • 校長をはじめ管理責任者の判断は仰がなかったのか

他にも、

  • 子供たちへの(マイナスの)影響
  • 上手くいかず長期化した場合の責任をどうとる
  • 納得いかない保護者との信頼関係は

他にもいろいろと懸案事項がでてくるが、とりあえずこのくらいにしておく。

授業放棄について法的問題はないのか~教師の裁量権の範囲について~

ここで教師の授業放棄について、法的に問題がないかについて焦点を当ててみる。

筆者は法律の専門家ではないので深くは立ち入らないが、調べた範囲で記すと、次のようなものである。

要約すると、教育現場を規律する法としては「学校教育法」というものがあり、それとの関係で授業放棄が教師の「裁量権」の濫用に当たらないか、が問題となるようだ。

これについては法律の解釈となり、個別具体的に判断することが必要となってくるが、
どうやら「教育目的」であり、かつ1時間程度の中断ならOKとのこと

他方で何日も続けば生徒の学習権との兼ね合いで裁量権の濫用に当たり許されない、とのことだ。
さらに感情的理由で放棄することも認められないという。

なので単純に当てはめれば、例えば放棄の期間が数日間に及べばアウトと言えなくもない。

つまり(最終的には個別具体的に裁判所の判断を仰がなくてはならないが)状況によっては違法の可能性を完全には否定できないのだ。

教師によっては授業放棄を何日も続けたり、生徒の出方しだいによっては授業をしない、との方針でいる方もいるようだ。
ご本人の教師としての信条・信念に基づいてのことと思うが、やはり独善的すぎる上に法的にも問題がありそうである。

また(なかなか立証が難しいのだが)第三者的には教員の感情的な側面も完全には否定できない気もするのだが、いかがであろうか。
よく教師の口から出るのが「生徒のためです」という言葉。
大義名分があるように聞こえるが、実は自分の欲求や感情を満たすための口実に用いられているような気がしてならない。

なお、ここで一言、言及しておきたい。

こうした問題では、指導する立場側の人間の中には「処分されるのを覚悟で上で、自分の信念を貫いた」などという者がいる。
また「法律の云々の話をしているのではない!」などと言いだす者も現れるかもしれない。

だが、法律は法治国家で暮らす者たちを律しており、特に当事者同士では解決できない紛争などで、最後の拠り所となるものである。

ここで(仮に違法であっても)自分の論理を優先しても構わない、との主張を皆がし始めたらどうなるであろうか。

それとも教育の場だけは治外法権なのか。
そうした論調は「反社」と受け止められても仕方ないのではないか。

ちなみに、もし仮に筆者の子供がこうした事態の当事者になったら(事が重大なだけに)直ちに校長と教育委員会に報告の上、責任追及も含め然るべき対応を至急求めるだろう。
当然のことながら、同時に訴訟も視野に入れていくことになるが、状況次第では授業放棄に賛同する他の保護者も(子供の権利侵害に加担するものとして)訴訟対象にすることを検討すると思う。

参考記事①:学校あるある「皆さんが反省するまで先生は授業をやりません!」は、教師の職務放棄? – 弁護士ドットコム

参考記事②:児童の発言に腹を立て教諭が授業を放棄 長門の小学校|NHK 山口県のニュース

参考記事③:f5cec669baff1e765f35bafa0c2bde7a.pdf
※医師による、医療現場のエピソードになるが、本質部分が同じなので参考までに紹介しておく。

授業放棄という手段が果たして正当と言えるのか

ここで一つ疑問が湧いてきた。

例えば、もし仮に(子供たちが)教師の納得する応答ができなければ、教師はどう対応するつもりなのだろうか。

「残念ながら、このままでは子供たちには授業を受ける資格はありません(≒人として教育を受ける資格も価値もありません)」ということなのだろうか。
つまり

教師の期待する応答なし➡人として教育を受ける資格なし➡その子供たちは人生終了?

これがあるべき教育なのだろうか。

それとも教師の自分の権威性を発揮するためのパフォーマンスなのだろうか。

あるいは、保護者との信頼関係を築くため?

管理責任者の校長や、監督機関である教育委員会の意見・考えをぜひ聞いてみたいものである。
教師としての資質も含めて。

授業放棄に子供はこう反応している

次は子供たちの視点に立って話を進めたい(筆者の体験談でもある)。

子供たちサイドとしては、授業放棄に際して「先生の怒りを鎮めるにはどうしたよいかな」と言った方向に思考や心が向いていく。

そのため表向きは反省する振りをし、演技するのだ。
もちろん心底、教師の思惑が伝わる子供もいるかもしれないが、全ての子供がそうとは限らない。

それどころか、子供の心や魂は親や教師のそれとは別の独立した存在であり、思っている以上に遠くかけ離れたところにいる。

結果は教師が期待する思考や反省とは程遠い、ということだ。

そして、その際、子供はあることを学んでいく。
どうしたら怒っている大人を宥めたらよいか、そのパフォーマンスのやり方を。

だが、それに教師は気づかない。
というより、心を向けようとしない。自分の視点でしか子供を見ない。つまり一方通行である。

(子供たちから見れば)教師はいわゆる「面倒くさい人」に過ぎないのだが、教師は明後日の方向を向いてしまっているのだ。

結局、授業放棄に走る教師はあまりに世間知らずと言わざるを無い。
狭い世界で自分の浅薄な信念だけで生きてくるとこうなるのである。

授業放棄との関係で次のようなケースを聞いたことがある。
授業放棄の発端となる、ある問題が教室内に発生したのだが、それに長い間その教室の担任は気づかなかったという。
この点について自分を責め、相当苛まされていたようだ。
そこで担任はその問題を根本から解決すべく、問題の当事者以外の子供も当事者と同様の立場に立たせて授業放棄の措置を取った。
筆者としては、問題を教室全体でシェアしようということ自体に異論はないが、問題はそのやり方と、その動機だ。
第三者的にはどうしても、教師自身の(気づかなかったことに対する)悔しさの念を、教室の子供たちに向けたのでは、としか思えない。
その後の授業放棄の期間や、授業の意義についての教員の認識を踏まえるとなおさらである。
懸念すべき点は少なくないのだが、例えば、法的にも問題が全くないと言い切れるのだろうか。
内容が内容だけに校長や教育委員会等の管理監督機関との連携・承認はどうなっていたのだろうか。
なにより、この手法を安易に真似しようとする若手教員がでてこないかも心配である。

人間の内心はそう簡単に形成できない

そもそも「反省」「感謝」「納得」「信頼」などは内心の問題である。

これらについては、基本的に外部から強制的な力で芽生えるものではなく、自発的に生まれていくものである。

昭和の頃は、暴力と恐怖で従えさせれば植え付けられる、との発想があったようだが、それが無意味であるのは明らかだ。

ハッキリ言ってしまえば事実上、脅しと同じだからである。

部活動などの任意の活動ならば、自分が従えなければやめれば済むが、正規の授業はそうはいかない。
子供たちにとっては逃げ場がなく、かつ(どうにもならない)弱い立場なのだ(だからこそ、教師にとっては都合が良いのだが)。

これを指導という大義を盾にとって、子供たちの内心に迫るというのはいかがなものだろうか。

体罰に怯え言うことを聞かそうとするのと、今回の授業放棄とは、どこが違うというのだろうか。
それとも上辺だけの言葉が並べばそれでよいのだろうか。

遠い昔、元子供だった筆者も断言できるのだが、
正直、彼ら(熱血教師)から学んだことは皆無であるし、学校教育の内容などたかが知れている。
また、(あくまで筆者個人についてだが)学校でなければ身につかないものなど殆どなかった。

こうした教師を生み出す責任は保護者にもある

こうした教師が今でも存続する理由の一つに、そうした教師に賛同する保護者がいることが挙げられる。

しかも、この保護者たちの様子を見ていると、教師を英雄有し、まさにヒーローのよう賛美している。

が、こうしたスタンスには違和感を拭えない。

子供ではなく、教師に目が向いてしまっているからだ。

おそらく、それは今日の教育の荒廃に対する閉塞感が背景にあるのだろう。

要するに、この手の教師の存在は、この閉塞感を打ち破ってくれるような印象を強く与えるのだ。

もっと言えば(教育に限らないが)極端なことや異例の対応をする人間が好まれる。
逆に、それに異論を唱えようとする者に対しては(例えば”モンペ”などと一括りにされ)同調圧力を募って潰しにかかるのだ。

だが、そうした保護者の賛同など、子供の内心の自覚や成長とは基本的に関係がない。

繰り返し言うがこれは究極的には子供たちの内心の問題だ。

子供の心や魂は、教師はもちろん親のそれとも別個独立のものであり、教師をヒーローに仕立てることなど百害あって一利なしである。

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